1.
「なあ、あんた…お仲間だね?」
突然声を掛けられたのは、都営地下鉄大江戸線のホームに立ち、六本木・大門方面行きの始発を待っている時だった。薄汚れたようなクリーム色のホームドアの手前、たっぷりと水気を含んだビニール傘が、その傷だらけのすり減った先端からまるで血のしずくのように足元の点字ブロックの上に雨水を滴らせている様を、ぼんやりと見下ろしていた。初めはまさか自分に向けられた言葉ではないだろうと断定して、そのまま、凹凸の隙間に水溜りを作りつつある点字ブロックの黄色を眺めていた。寝不足の目蓋は重しを吊ったようで、ほんの僅かに燻んだような蛍光灯の光に照らされたホームが、余計に黄ばんだように感ぜられた。
「なあ、あんた……」
ツンと鼻を刺すアンモニア臭に思わず顔を顰め、声のした方を向いた。殆ど襤褸同然の薄汚れた服を纏った男がひとり、そこに立っていた。その灰色の頭のてっぺんから埃を被ったような皺だらけの顔の、左右で大きさが違っているみたいな澱んだ目が、まるでその皺に埋もれるように細められている。失敗作の陶芸品みたいに歪められた口の中、カリエスに蝕まれた黄色い歯を剥いて、男は「なあ、あんた」と、意外にも明瞭な発音で言葉を発した。ねばねばした嗤い声を上げて、男は襤褸の下の枯れ木に似た肩を発作のように震わせた。
「なあ、あんた……お仲間だね?」
状況が飲み込めず、無意味に周囲を見渡しながら後退りする。男がなにを言っているのかわからない。本当に、何が起こっているのかを理解できない。人違いか、或いは、気がちがっているのだろう。と、頭上のスピーカーから短い音列が聴こえ、間も無く列車が到着する旨のアナウンスが続いた。目の前の男越しに、後ろの掲示板の時刻を見る。どういう訳か、目が霞んでいるのか、時計も文字盤も、よく見えなかった。何故か、ただの光る点の集合にしか見えない。始発列車の一刻も早い到着を心から祈る。同時に、目の前のこの男も一緒に乗り込んでくるのではないか、という確かな不安がたちのぼる。逃げた方が良いだろうか、いや、逃げるべきだろう。しかし、何処へ逃げるというのだろうか。それに、仮に逃げたところで、この男が後を追ってきたら無意味ではないだろうか。男は目の前で、その身体に黄色く澱んだような臭気を纏いながら、変わらず能面のように嗤い続けている。
線路が遠くから低く音を運び、ホームの風が俄かに動いた。鼻を刺す刺激臭が強さを増し、堪えきれず片手で口元をおさえて咳き込む。自然と、両脚は男から離れるように駆け出していた。先頭車両の方へ。
「なあ、あんた……」
背後から投げかけられた言葉は、ホームに侵入した列車の轟音と渦を巻く風に途中から掻き消されたが、不思議と、何と言ったのかわかった気がした。だが構わずに、男から少しでも離れようと、咳き込みながら走る。速度を落とした列車がやがてその動きを止め、ホームドアが開き、少し遅れて車両のドアが開いた。先頭車両に駆け込む直前、振り返って、男の方を見た。男はまだ先程と同じ場所に立ったまま、その歪な笑顔をこちらへと向け続けている。遠くからはっきりと、襤褸のような男が肩を震わせて嗤っているのが見えた。ドアが閉まる。自分以外に誰もいない車内で、座席に腰を下ろして、目を瞑った。身体が加速度を感じ、重い金属の車体が、モータの低い唸りと共に、闇へと向かって動き出す。
2.
夢を見ていたのだろうか。気がつけば、大江戸線の草臥れた小豆色をした座席の上で、手摺りにしがみついたままの自分がいた。真っ暗な車内は自分ひとりしかおらず、地下深くの線路上をひた走る列車の窓から、壁面の白い照明が、進行方向から後ろへ向かって、規則正しく車内を照らしては過ぎ去ってゆくばかりであった。今も夢を見ているのだろうか。カーブに差し掛かった列車の座席から慌てて立ち上がり、少したたらを踏んだ後、引っ掴んだ手摺りにもたれ掛かるようにして、真っ暗な車内を暫くじっと見つめた。思い出したように、腕時計を覗き込む。暗闇に目を凝らすと、秒針が一秒毎に、あらぬ方を飛び飛びに指しているのが見えた。それに伴い、長針も短針も、まるで野良猫のような気儘さでもって、前へ後ろへ、或いは、意識がふっと途切れたように、力無く中心点から下方へぐったりとぶら下がったりを繰り返していた。なんとも言い難い薄気味悪さを覚え、左腕の腕時計を剥ぎ取るように外し、車内の暗闇へ目掛けて放り投げた。腕時計が床に当たる硬い音は、地下鉄を進む列車のけたたましい音に虚しくも掻き消された。
窓の外を規則正しく過ぎ去ってゆく照明を頼りに、暗い車内を彷徨っていた。列車は正真正銘、自分ひとりしかおらず、また、何処かへと向かっているようで、しかしどれ程時間が経過しても、決して何処へも辿り着くことはなかった。広告も無い、最低限の注意書き等の表示しか無い車内は、普段乗り慣れた都営地下鉄大江戸線であるのはどうやら確からしい。それ以外、確実なものは何ひとつ無い。右手に握られたビニール傘がまだ乾いていないところから察するに、始発列車に乗り込んでから然程時間が経過してはいないであろうことが予測された。だが体感では、既に一時間程もこの暗闇に囚われているように感ぜられる。或いは、本当はまだ五分と経過していないのかもしれない。呼吸が苦しくなり、車両の端の座席に腰を下ろした。持病の不正脈が出て、おかしな空咳をする。これからどのようにすれば良いのか、何もわからない。暗い車内を彷徨う途中何度か非常通話ボタンを押してみたものの、何の反応も示さなかった。ドアの上の手動開放レバーのあるカバーに関しては、何をどうしても、天と地がひっくり返っても、頑なに開こうとはしなかった。そもそも、車内には自分以外の乗客はおろか運転手すら居らず、手動でドアを開けた所で、走行中の列車から無傷で飛び降りることができるとも思わない。八方塞がりであった。何故自分がこのような目に遭わなければならないのかと、段々と腹が立ってきた。根拠は無いが、きっとホームで突然声を掛けてきた、あの男のせいに違いない。そう思えて仕方がない、と言うよりも、そのように考えることで、少なくとも原因を特定し、心を僅かにでも落ち着かせようとしているのだった。仮にもあの男が原因だったとて、どうなるものでもない。何故ならば今この車内には、自分以外誰もいないのだから。
喚こうが走り回ろうが、そこは走行中の暗い列車の車内であり、特に何も起こらないまま時間だけが過ぎ去ってゆくようであった。と言っても左腕から腕時計をむしり取ってしまったため、時間の経過を正確に知る手段は無い。なんとなくではあるが、自分がこの列車に閉じ込められてから、かれこれ半日以上は経過したのではないだろうか、と思う。そのような実感が、実際の空腹や渇き、そして痛みや疲労として身体のあちこちで感じられた。だが気づけば、右手に握られたビニール傘は、まるで先程まで土砂降りの中に晒されていたかのように、未だにそのすり減った先端から雫を滴らせ続けているのだ。本当は然程時間なんて経過していなくて、実は駅と駅の間を走っているだけなのかもしれない。そんな訳はない。現に身体は長い長い時間の経過の兆候を示している。空腹。疲労。あまりに喉が渇くので、ビニール傘の先端から滴る雫を舐めてみた。傷だらけのすり減った先端から滴るそれは、まるで血のように鉄と錆の鈍い味がした。
3.
どれ程時間が過ぎ去ったのか、もうわからない。気を失って倒れたのか、それともただ床で眠っていたのか、それすらも定かではなかった。しかし気がついた時、列車が微かに減速しているのを身体が感じ取っていた。突然、車内のアナウンスが聞こえた。間も無く、どこそこの駅に到着するようだ。はっきりとした口調でアナウンスが告げた筈の駅名は、どういう訳か、その意味が感じられることはなかった。つまり聞き取れなかった。上体を起こし、揺れる車内にふらつきながらも、なんとか立ち上がった。列車はやがて確実に速度を失ってゆき、ブレーキの甲高い悲鳴と共に、暗闇の中に停車した。進行方向に向かって右手側のドアが開く。導かれるように、もつれる脚を引き摺って、列車から降りていた。どうやら、駅のホームと思しき場所へと到着したらしい。だがそこもまた、今まで自分が乗っていた列車同様、墨を塗ったような闇が広がっていた。足元は靴の下に、多分都営地下鉄大江戸線のあの何とも言えない色合いの床が確かにある。暗闇の中にあってその硬い感覚だけが、今は頼りである気がした。
「ドアが閉まります」
発車サイン音に続いて、聞き慣れたいかにも礼儀正しそうなアナウンスが流れた。背後で列車のドアと、続けてホームドアが閉まる音がした。一呼吸置いて、のっそりと動き始めた列車が、彼方へと走り去ってゆく。暗闇の中、濡れたビニール傘を右手に引っ提げたまま、呆然と佇むこの男を残して。やがて線路から低く鳴っていた列車の走る音すらも、その暗闇へと吸い込まれるように消え、己の周囲を、深い闇と沈黙とが支配するに至った。
しかしより深い闇に目が慣れるにつれ、そこが全く光の無い場所という訳ではないことが、徐々に分かってきた。彼方ホームの端の方、恐らくエスカレーターか何かである場所の上の方から、かすかに光が零れ落ちているように見える。腕を前へと突き出し、その有るか無しかの光の方へと、恐る恐る進み始める。その途中、少しでも恐怖や疲労を紛らわせる為に、今自分がいるこの真っ暗なホームがもし仮に都営地下鉄大江戸線の駅のホームであるならば、一体どこの駅なのだろうか、と考えを巡らせる。なんとなくではあるが、今自分が降車した側のホームの形状、そしてその途中にある太い円柱には見覚えが有る気がした。見覚えと言っても暗闇の中にあって全く視認はできないと言っても過言ではなかったのだが。兎も角、似たような構図のホームを、自分はよく知っている。少し考えた後、もしかするとここは、新宿駅の地下なのでは、と思い至った。今自分が左手に触れているこの滑らかな壁は、本来ならば深い青色をしているに違いない。そして今自分が向かっている方向、エスカレーターを登った先には踊場のようなスペースとまたエスカレーターがあり、それを登ると右手へ向かって伸びる長い通路、更にそれを行った先の階段を登りまた一際長いエスカレーターを登ってゆくとそこが漸く自動改札機である筈だ。京王線と大江戸線の乗り場へと続く改札階、新宿駅地下街へと続く通路と、南口方向へと向かう階段…疲れ果てた心が、同じく疲れ果てた身体を置いて先へ先へと急ぐようであった。自分の知っている新宿駅の地下が想像以上にエスカレーターばかりであることに気付き、少しおかしくなって、口元に笑みすら浮かんだかもしれない。このような夢とも現実ともつかない状況で、こんなどうでも良いことを考えて笑う。自分は既にどこかおかしいのかもしれない。だがホームの端、仄かに光の零れるエスカレーターにその棒のようになった脚を乗せた途端、緩んだ口元は引き攣り、先走る心が再び身体へと舞い戻るように、息をのみ意識が鋭く尖る。無人の殆ど明かりの無いホームではあったが、エスカレーターはどうしてなのか機能しており、乗り込んだ者を上へ上へと運んでいた。その長い長い道のりの遥か上を見上げて、違和感を覚えたのだった。自分が知っている本来の都営地下鉄大江戸線新宿駅のそれよりも、今しがた自分が乗り込んだエスカレーターは遥かに長く、更に僅かに上より零れ落ちるその光は、上へ向かう程に血のような赤味をおび、その最上部はまるでもやがかかったかのように妖しく霞んでいた。上へ上へと向かってはいるのだが、まるで煮えたぎる地獄の釜のように見える程、その赤い光がおそろしく揺らめいて、まるで哀れな迷える魂を捕らえようと、手ぐすねを引いて待ち構えているかのようだった。先程まで乗っていた無人列車とはまた別種の恐怖を覚え、登りエスカレーターの上で身を翻し、足音を立てて降りる。だが幾ら駆け降りても駆け降りても、エスカレーターから降りることはできない。それどころか、暗いホーム階はどんどん遠ざかってゆく。息を切らし、一段飛ばしで降りるが、それでも自分はゆっくりと上へ運ばれてゆく。たまりかねて、エスカレーターのゴムのような手触りの手摺りに足を掛け、無理矢理隣のエスカレーターへと飛び移った。これで下へ降りられる、と思ったのも束の間、なんと本来降りエスカレーターであるべきそれは、上へ向かって動いていたのだった。ならばと丁度エスカレーターとエスカレーターの隙間、滑らかな金属のまるで滑り台のようになっている部分へと身を乗り出す。これならば途中、注意書きの表示に引っ掛かりはすれども、今度こそは下へと降りることができると確信した。案の定、その滑り台のように滑らかな斜面の上を、自分は滑り降りてゆく…だが、幾ら滑り降りても、いつまでも、いつまでも、一向に下へと辿り着くことがない。まるで自分と下の階層との間の空間が、自分が降るのに合わせて成長しているかのようである。そうこうしているうちに、先程まで恐る恐る腕を前へと突き出して進んだ暗いホーム階は、遥か下方へと遠ざかっていった。自分はと言えば、ほぼ気が狂いそうになりながらも、狂ってしまえる程の気力も最早残されてはおらず、硬い凹凸に覆われたエスカレーターに身体を投げ出し、暫くの間荒く息をするのみであった。その無力な身体ひとつを、長い長いエスカレーターは、低い唸りを上げながら、只管に上へと運んでゆく。
4.
長い長いエスカレーターから降りた先、そこは最早都営地下鉄大江戸線新宿駅の地下街でもなんでもなく、広くも狭くもない通路が入り組んだような空間であった。己の脳裏を一瞬、中野ブロードウェイの建物内がかすめ去る。但し中野ブロードウェイとは違い、自分以外に人のいる様子は無く、更には得体の知れない赫いもやが一帯の空気を満たしていたのだが。この赫いもやは何か胸のむかつくような甘くえぐい臭いがして、空腹に喘ぐ自分の胃袋を容赦なく刺激する。左の袖口で口と鼻とを覆い、その赫赫と烟る暗い道々を、探り探り歩くことにした。文字通り、そうするより他に道は無い。暗闇と赫いもやに遮られた視界は既に一寸先すら見通すことが叶わず、濡れたビニール傘を掴んだままの右手で、壁や床を伝いながら、どこへ向かうでもなく、虫のように這いつくばってゆく。ふと、どこかから、何やら物音が聞こえた。それは最初、低い唸りか何かのように聞こえ、思わず全身が総毛立つようであったが、しかし息を殺してよく耳を傾けると、どうやら話し声らしき抑揚があると気付いた。この得体の知れない空間にやってきて初めて、心が舞い上がるように思えた。自分以外に、人間がいるのだ。
そこでは男がふたり、どこから調達したのか、火にかけられた鍋の側で腰を下ろして、何やら話し込んでいた。ふたりとも、汚れで本来の色が分からなくなったり所々穴の開いたりしているレインコートを羽織り、フードをすっぽりと被った上に、顔の下半分を何やら布で隠していたので、どのくらいの年齢なのか、どのような顔立ちなのか、どういった表情なのか、なにもわからない。表情はわからないのだが少なくとも、自分がよろめきながらふたりの側へと歩み寄ると、驚いたように声を上げ、尻餅をついて後退りするのが赫いもや越しにも見て取れた。きっとふたりとも、その両の眼を見開いて此方を見ているに違いない。
「だれだ」
ひとりが持ち手に布を巻いた手斧を持って立ち上がり、震える声を懸命に張り上げた。だが、既に自分には応える気力も説明する体力も残ってはいない。声を出そうとするも、渇ききった舌先から声に代わって出たのは、ひゅるひゅるとした隙間風のような奇妙な音ばかりである。突然全身の力が抜けて、硬い地べたに膝から崩れ落ちる。四つん這いになって、懸命にそのふたりの方を見ようと努めたのだが、自分以外の人間の存在を認めた安心感からか、急に視界がぼやけてゆき、同時に意識が遠のくのを感じた。
次に目を覚ました時、己がコンクリートブロックで作られた簡易的なコンロの横に寝かされていると知った。右手には、未だじっとりと雨に濡れているビニール傘が握られたままである。虚ろに開かれた両目で辺りを見渡すと、すぐ側の地べたの上で、最早何色かすらわからない草臥れたフードを目深に被り、顔半分を布で隠した男がふたり、怯えたような目つきで、此方を伺って胡座をかいていた。何故顔を殆ど隠した者たちが男だとわかったのかといえば、気を失う前にこのふたりの声を聞いたからである。
「気がついたか…」
ひとりがそう言った。自分が気を失う直前、立ち上がって手斧を構えた方だ。その手斧は今、男が右手を伸ばせばすぐにでも掴める位置に寝かされている。警戒しているようだが、本当に脅威だと思ったならば、自分が気を失っている間にその手斧を振るっていただろう。そして自分は二度と目を覚ますことはなかったに違いない。だが、そうはならなかった。或いはそのまま目覚めない方が良かったかもしれないと、頭の片隅で考える。
「なああんた、腹減ってるんだろう?それも、倒れるくらいに…」
もうひとりの方、手斧を持って立ち上がった男よりも小柄で少し声が高い男が、卑屈な笑いを浮かべたような声色で言う。
「よかったら、これ、食うかい…?」
その小柄で卑屈な声色の男は、簡易的なコンロの上で火にかけられている鍋の中身を少しかき混ぜた後に掬い、小さな椀へ分けた。ニットの指抜き手袋の、垢に塗れた指が掴むそれを、自分の方へと差し出す。手斧の男が、意味ありげな目線をその小柄な男に送ったのを確かに見た。だが空腹と渇きに支配された身体が、その目配せの意味を考えることすらも忘れて、その椀に手を伸ばしていた。椀を差し出した男が、卑屈な笑い声を上げる。その椀の中には、何色とも言い難い汁と、不定形の小さな白い塊が幾つか入っていた。土のような、或いは草のような、なんとも言えない臭いがした。決して食欲をそそる物ではなかったが、長い間何も口にしていなかった自分には、最早どうでもよく思えた。椀に口をつける前、今一度ふたりの男の顔を見た。ふたりとも、そのフードと布の隙間から、刺すような視線を此方へと向けている。それから椀の中へと視線を落とし、口元へと近づけ、それを口に含んだ。非常に薄い、殆どお湯のような、しかし苦いような甘いような、何やら奇妙な味がした。白い小さな塊は、僅かな歯応えすら無く、ただ脂っこい舌触りで汁の中に溶けていった。
「ああ…」
手斧の男が、短く、溜息のような声を漏らす。
「ほんとうに食ったよ」
「ああ、ほんとうに」
続いて、小柄な方の男が、また卑屈そうに笑った。
「食っちまったな…」
ふたりは口々にそう言った。呼吸が荒くなってゆく。自分が今しがた口にしたものへ、再び視線を落とした。じっくりと目を凝らし、その汁と、汁の中に浮かぶ塊を見つめる。急に全身から嫌な汗が吹き出た。その中身を、自分は良く知っている気がする。否、知っているのだ。その中身が何なのか理解した瞬間、手にした椀を放り投げ、躓きながら、声を上げて逃げ出していた。背後から、ふたりの男の高い笑い声が、暫くの間追いかけてきた。
5.
壁に凭れ掛かり、どこか遠く、或いは近くを見るとなく見つめる。疲れ果て、疲れ果て、心は擦り切れ、身体を動かす気力も無く、ただ時が過ぎるに任せて、赫いもやの満ちた宙を見るとなく見つめる。あのふたりのもとから逃げ出してから、もうどれ程の時間が経過したのか。また、自分が果たして何故ここへとやってきたのか。それらはもうどうでも良かった。どうでも良くはないかもしれないが、最早それについて考えることができないほどに疲れ切っている。確かなことは、自分がこの、夢とも現実ともつかない、何処かもわからない場所で、ひとり寂しく朽ち果てるであろうということ。その実感は、言うなれば諦めであった。しかし諦めは時として、人の心に穏やかで暖かい風を運ぶのだと、その時は何故か思った。きっと自分は、いっそのこと早く終わってほしかったのだと思う。
足音、それも、大勢の足音であった。まだ何かあるのかと、ぼんやりと音のする方、赫い暗闇へと、顔を向ける。闇の向こうから、何やら大勢の人間が足を踏み鳴らす物々しい気配が近づいてくる。そのうち、なにやら声を上げているのも聞こえた。
「進者往生極楽、退者無間地獄」
「進者往生極楽、退者無間地獄」
「進者往生極楽、退者無間地獄」
それは、土に汚れた野良着姿の人の群れであった。それぞれが鍬やら鋤やらを手に、或いは文字の書かれた幟を手に、群れをなして通り過ぎてゆく。その者たちは、人でありながら顔が有るべきところに顔が無く、まるで歪んだ枯れ木のうろのような、或いは切り株の年輪のような模様に似た何かが、目や口の代わりに備わっていた。
「進者往生極楽、退者無間地獄」
「進者往生極楽、退者無間地獄」
「進者往生極楽、退者無間地獄」
その枯れ木のうろのような、人間の顔だと口に該当する部分から、その声は聞こえるようであった。皆が皆、野良着から伸びる腕も脚絆やら股引に包まれた脚も、まるで骸のように痩せ細っている。
「進者往生極楽、退者無間地獄」
「進者往生極楽、退者無間地獄」
「進者往生極楽、退者無間地獄」
そうか、地獄か…と、ぼんやり思う。傍らで壁に凭れ掛かっている自分には一切目もくれず、その一揆の集団は赫い暗闇の中を足を踏み鳴らし、土と汗の臭いを残して過ぎ去って行った。
「もうし、もうし」
妙に間延びした大声で呼びかけられ、薄目を開ける。眼前にあったのは、こちらを覗き込むように身を屈めた中身が空っぽの大鎧と、同じく空っぽの小さな鎧武者であった。
「貴殿にお尋ね申し候、先刻、彼方より百姓どもの群れ来ざりしか」
その妙に間延びした、正しいのか間違っているのかよくわからない古めかしい口調の大鎧に応える代わりに、ゆっくりと左手を持ち上げ、人差し指で彼らが去って行った方向を指差す。
「ずざじぜぞ、ずざじぜぞ」
小さな鎧武者が突然、右手に握った鞭を振り回して、地面に投げ出した脚やらなにやらを小突きはじめた。空っぽの大鎧が、咎めるように片手でその小さな鎧武者を遠ざける。
「こぉれ、訳も無く打ってはならぬ」
訳が有れば打っても良いのか、と思ったが、そうか、それが許されている身分なのか、と、その時は何故か妙に納得した。自分でもわからないうちに、既に思考力はかなり低下しているようであった。
「ずざじぜぞ、ずざじぜぞ」
「非礼を御詫び申し候、これにて失礼仕り候」
「ずざじぜぞ、ずざじぜぞ」
わちゃわちゃと鞭を振り回す小さな鎧武者を片手で引き摺りながら、大鎧は彼方へと消えてゆく。本当に、正しいのか間違っているのかよくわからない口調であった。
視界が霞んで見えるのは、おそらく過度の脱水によるものだろう。最早身体を動かすこともできない。口は渇いていたが、空腹は不思議と感じなかった。多分あのふたりの所で口にしてしまったあの汁が、食欲を完全に消し去ってしまったのかもしれない。目をしばたかせ、右手に握ったビニール傘をちらと見た。ビニール傘はまるで、ついぞ先程まで土砂降りの中に晒されていたかのように、たっぷりと雨水を含んで、床の上にも水溜りを形作っていた。ふと、暗闇の中から、硬い何かで床を引っ掻くような音が聞こえてきたので、僅かに視線を上げた。真っ黒い針金を編んで作ったみたいな姿の、脚の長い奇妙な虫が、やがて姿を現した。頭の方から伸びる2本の短い触覚のような部分の先端に、まるで人間のそれのような小さな目玉がくっついていて、キョロキョロと辺りを見回していた。子猫ほどもあろうかという大きさのそれが、自分の投げ出された脚の近くまでやってきた時初めて、びくりとその黒い針金のような身体を強張らせ、その突き出た目玉で、じっくりとこちらを観察しているようである。ぼんやり見つめていると、その小さなふたつの目玉と、目線が交わった。
「失礼、通らせてもらうよ」
その黒い針金を編んで作ったみたいな身体からは想像もできないような、太く穏やかな声であった。軽く頷いて返答すると、相手もその突き出た目玉をまるでお辞儀でもするように少し傾けて、そしてまた針金のような細長い脚で、投げ出された両脚の上を横断して行った。見た目よりも僅かに軽く、しかし針金で刺されるようなちくりとした痛みは感じた。
「なあ、あんた」
去り際、針金を編んだような虫が脚を止めて、ほんの少し振り返った。
「なあ、あんた…どこから来たんだ?」
小さな目玉がふたつ、揺れ動きながら見つめてきた。その視線を受け止めつつ、ゆっくりと、顔を左右に振った。
「そうか…」
少し溜息混じりに言う虫は、俯くように目線を逸らすと、再びゆっくりとその細長い脚で歩き始めた。
「あんた…お仲間だね」
ポツリと、少し淋しげに、虫がこぼすのを聞いた。そして、針金のような脚が床を掻く僅かな音も、次第に遠ざかってゆく。残された身体のもとへは、その後、何者も訪れることはなく、何者かが訪れたことを知る前に、目を閉じたそれは、永い眠りについたのだった。

